「喜びの詩」 第48号 2008年9月26日
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目次
□ 世界の成り立ちについて
□ 人のありようについて
□ 生きることについて
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
■ いくつかのものごとについて
○ 循環
○ 展開のかたち 再び
○ 物質
● 知を活かすこと
○ 相似のたとえ
(本号に掲載するもの:■●)
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─────── 知を活かすこと
人は、知っているだけでは、その内容を必ずしも活しきれない。
理解することで、それをより活かせるようになる。
人は、未知の内容を理解していける。
これはいわば、認識が新たに跳躍すること。
跳躍は、跳ぶ先に、すでに広がりがあってこそ成り立つもの。
つまり理解は、高い能力が、すでに潜在してこそ成り立つもの。
一度に大幅に跳躍するのは難しい。
未知の内容と、すでに理解している内容とを照らし合わせ、
そこに相似を見つける、つまり共通する型を見つけることで、
新たに跳躍する幅は小さくなる。
すると、理解はやさしくなり、その分、早くでき、深くできる。
つまり、理解力は、相似を見つけ出す力によって多く支えられている。
「たとえ話」も、相似した事例を示すもので、理解にとって本質的な役割を果たすもの。
様々なものごとの中に相似を見つけることは、人にとって純粋な喜び。
それは理解の喜びと重なるもの。
子供にとって最初の理解も、そこから始まる。
本物の犬、玩具の犬、絵の犬、それらに共通する犬という型を、喜びとともに見つけ出す。
語呂合わせや、韻を踏んだ歌の中に、共通する音という型を、喜びとともに見つけ出す。
その延長として、人は、複雑な現象の間に、共通する法則を見つけ出すようにもなる。
人は、偏った事例の体験から、普遍的な理解をもてる。
日常的で基本的なことの理解から、非日常的で高度なことを想定しうる。
これらが成り立つのは、人が、理解した内容を様々なことに、相似的にあてはめうるゆえ。
人は、理解しているだけでは、その内容を必ずしも充分に活かしきれない。
会得することで、それを充分に活かせるようになる。
会得するとは、その内容を、いつでも思いや行いに反映できる状態にすること。
会得の方法とは、強く思うか、思いや行いを繰り返すこと。
それは、情報を「自分の個性」に刻み、能力や人格の一部にすることにあたる。
会得した内容は、自分にとって「自動化」されたもの、つまり身に付いたものになる。
有用な知識を役立てるには、
それをどれだけ会得できたかを、自覚していくことが肝要になる。
それは人の成長を大きく左右しうる。
会得に無自覚であれば、どんなに学んでも、ほとんどが身に付かないことがある。
会得に自覚的であれば、少ない学びからでも、確かなものが身に付くことがある。
何らかの技能の習得においては、
初めは往々にして、基本的なことで意識が一杯になり、主題にまで思いが回らない。
基本を繰り返して会得する、つまり「自動化」すると、主題にも思いが回るようになる。
能力の面で、意識の「目覚め」が高ければ、初めから基本と主題の両方に、思いが回りうる。
これはいわゆる、のみ込みが早い状態。
しかし、器用さに満足し、繰り返すことを怠れば、そこから伸び悩むこともある。
充分に「自動化」されず、意識で多くが支えられた技能は、感情の影響も大きく受ける。
その点で、繰り返しによって会得された技能の方が、より確かなものになりうる。
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人が行う様々な設計は、
知り、理解し、会得したことの応用と、
自動的にもたらされる、ひらめきからなる。
前者は自力によるもので、
後者は「自動の働き」によるもの。
人がひらめきを求めると、「自動の働き」の中で、その情報が検索されることになる。
検索の対象になりうるのは、
「もともとの意識」の無限の可能性から生み出される情報と、
他者の思い、つまり活動の軌跡として生み出された情報。
そこから、自分の思いに同調するものが参照される。とすれば、
より高度な内容を得るには、それに見合う思いをもつことが必要になる。
人が思いを発すると、「自動の働き」の中で、その情報が共有されることになる。
そしてそれは、同調する思いをもった他者に伝わりうる。とすれば、
物的に交流のない離れた文明の間に、同様な技術が見られたり、
離れたところで同じ研究をする人の間に、同時期に同様な発見が生まれたり、
ある個体が新しい技能を身につけた際に、集団の中でその習得能力が高まったりすることも、
あって不思議でないことになる。
創作、研究、事業などを、新たに設計し、生み出そうとするとき、
自力によって、
適度に情報を摂取することは、自由な発想や、新鮮な感動をかき立てうる。しかし、
過剰に情報を摂取することは、先入観を植えつけ、それらを妨げうる。
むしろ情報が限られていることで、その発展形や組合せを、充分に探求できる面がある。
ゆえに、ある分野の開拓者が、その分野の最もよい達成者になっていることもある。
多くの情報を摂取しながら、
自由な発想や、新鮮な感動を保ったり、適切な判断を下したりしていくには、
有用な内容を有用なものとして、そうでないものをそうでないものとして、
適切に位置づけること、つまり「重み付け」をすることが必要になる。
「重み付け」の方法とは、有用な内容ほど、強く思うか、繰り返し思うこと。
本を分類しない図書館が、使い難いものであるように、
「重み付け」をしない記憶は、その本来の価値を損なうもの。
適切な「重み付け」をすれば、たとえば、
繰り返し接する、価値の少ない情報に、振り回されずに済む。
一瞬だけ意識をよぎる、人生にとって重要な考えを、忘れずにとどめておける。
また、もっている知識は変わらなくとも、
それを活かして生み出せるものが、質、量ともに向上しうる。
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あとがき
ここでは、理解、会得、ひらめき、重み付け、といったことについて考えました。
ところで、人はなぜ駄じゃれというものを好むのでしょうか。
そこには何ら、面白さを生み出す目新しい構造はないはずですが、
人々の口から駄じゃれが失われる兆しはありません。
駄じゃれの構造とは、別々の意味の言葉に、音の相似形がある、という一点ですが、
結局人は、相似を見つけることに、原初的な喜びを感じてしまう、
というのが理由ではないでしょうか。
次号では、いくつかのものごとを取り上げて、そこに相似を見いだします。
それではまた。
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発行者 哲楽人 週2回発行(月曜・金曜)
バックナンバー掲載サイト http://www.yorokobi.info
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