「喜びの詩」 第46号 2008年9月19日
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目次
□ 世界の成り立ちについて
□ 人のありようについて
□ 生きることについて
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
■ いくつかのものごとについて
○ 循環
○ 展開のかたち 再び
● 物質 (●前半/○後半)
○ 知を活かすこと
○ 相似のたとえ
(本号に掲載するもの:■●)
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─────── 物質
物質は、ありありとしたものの典型。それは、
それ自身のありようにおいて明瞭なもので、他との関係においてつじつまの合ったもの。
逆に、睡夢の中の表現は、ありありとしていないものの典型。たとえばそれは、
存在が曖昧だったり、同じ所に複数のものが重なったり、今存在したものが消えたりするもの。
一方、物質の微小なありように、どこまでも深く分け入れば、
それは明瞭なものでなくなり、常識的につじつまの合ったものでもなくなる。
つまりそれは、ありありとしていないものになる。
それがもし情報の表現だとしても、もはや不思議でなくなる。
どんなに克明な写真も、克明でない微小な点描を、膨大に積み重ねてできているように、
ありありとした物質も、ありありとしていない微小な姿を、膨大に積み重ねてできているもの。
つまり、ありありとした現実感とは、少なくとも、
初めから当たり前にあるものでなく、つくり上げられてできているもの。
他方、物質の姿を日常的に、ありありとしたものとして捉えるには、
時間や空間を現実として捉える、認識のかたちが必要。
そして、その「鋳型」を通して認識する限り、物質はひたすら現実的なものとして現れる。
それがもし情報の表現だとしても、もはや実感できなくなる。
物理量としての時間と空間は、つきつめれば、相対的にふるまうもの。これは、
時間と空間そのものを、実体でなく情報の表現として捉えることで、初めて理解しうるもの。
物質の世界が、見たままの実在で、他の何ものにもよらず成り立っているという考え方は、
実感としては自然。しかし成り立ちとしては不自然。
物質の世界が、もともとは情報で、より上位の働きによって成り立っているという考え方は、
実感としては不自然。しかし成り立ちとしては自然。
ここで、
前者の不自然さは、どうしても拭い難いもの。それは、
生物に至るこの世界のつくりが、何ものにもよらず偶然に生じたとは、やはり考え難いゆえ。
後者の不自然さは、考えようによっては拭えるもの。それは、
情報を高度に構築すれば、その表現をありありとしたものに感じることは、現にあるゆえ。
とすると、より自然な考え方は後者になりうる。
たとえば、人工的な情報技術による、ありありとした仮想現実の表現は、
「有、無」にあたる「1、0」という情報を、高度に構築してできるもの。
こうした表現は、高度にしていきさえすれば、限りなく現実の現象に近づいていく。
このことは、現実の現象も、情報の表現というかたちで成り立たせうることを示唆するもの。
そもそも、人の意識に映じるありありとした世界は、脳に伝わる情報が再構築されたもの。
つまりそれは、神経を伝わる信号に還元できるもの。
これは、神経を伝わるだけの情報で、充分にありありとした表現がつくれることを示すもの。
宇宙の中に、地球があり、生物があり、人がある、
その全てに、圧倒的な構築性が見てとれる。それを見るほどに、
あらゆるつくりが、偶然によって成り立つとは思えてこない。
そのつくりを生み出した、原因があると思えてくる。
つまり、全くの無から有は生じないと思えてくる。
物質を超える上位の働き、つまり神というものを認める考えは、ここから来るもの。
それは荒唐無稽さでなく、合理性を求めることから生まれるもの。
なぜ宇宙は、時間と空間という広がりをもち、
何らかの活動というものを許す自由度をもっているのか。
なぜその宇宙に、主体的に活動する生物というものが登場したのか。
なぜ生物は、感覚手段をもち、活動手段をもち、生き残ろうとし、増えようとするのか。
これらのつくりを虚心に眺めるとき、
これらを通して「体験」というものを実現しようする、「設計意図」がそこに読める。
考えるほどに、これらは「体験」をするために、あまりによくできている。
「体験」というものを頂点にして、その実現のためにあらゆるつくりが、まるで奉仕している。
ここに注目する限り、これらは「体験」のためにつくられたと考えるのが自然。
そして、その「体験」の目的を問えば、つまるところ、喜びに行き着く。
物質が、ある配列をとったところに、生物が生まれてきたという状況を、どう見るべきか。
特別な可能性をもたない物質が、ある時、ある配列をとることで、
そこに突出した可能性が、降って湧いたように生まれたと見るか。
もともとあらゆるところに、生の可能性が、一定の自由度の制限のもと、潜在的に満ちていて、
物質が、ある配列をとることで、その自由度の制限に、いわば風穴が開き、
そこに生の可能性が、待ちかねていたかのように噴出してきたと見るか。
全くの無から有が生じないとすれば、より自然な見方は後者になる。
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あとがき
ここでは、唯物論への懐疑を提示しました。
またここでは、「自然かどうか」という判断基準を用いています。
論理というものにも限界があり、それを越えた先のことについても判断を下そうとすれば、
そこに感性を加えるしかありません。
そうした究極の判断が、つまり「自然かどうか」ということになります。
ちなみに、リアリティーというものを、明瞭さと、つじつまが合うこととで定義しています。
たとえば、物語において、登場する人物像が曖昧だったり、
筋書きのつじつまが合わなかったりすると、その物語はリアルに感じられなくなりますし、
コンピューターで描き出された仮想現実において、対象物のありようが曖昧だったり、
周囲とつじつまが合わなかったりすると、その世界はリアルに感じられなくなる訳です。
次号では、引き続き「物質」をテーマに、物質と意識の関係などを考察します。
それではまた。
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発行者 哲楽人 週2回発行(月曜・金曜)
バックナンバー掲載サイト http://www.yorokobi.info
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