「喜びの詩」 第40号 2008年8月29日
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目次
□ 世界の成り立ちについて
□ 人のありようについて
□ 生きることについて
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
■ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
○ 社会
○ 教えと道徳
○ 集団
● 知ることの必要 (●前半/○後半)
○ 社会での価値観、世界観
□ いくつかのものごとについて
(本号に掲載するもの:■●)
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─────── 知ることの必要
人は常に、自力と運の展開の中にある。そして、
自力のかじ取りをすることで、直接的に喜びを引き寄せることができ、
運のかじ取りをすることで、間接的に喜びを引き寄せることができる。
文明を伴う社会の中で、人が自力を発揮するには、
本能を活かすだけでは足りず、「知る」という行いが必要になる。
それは文明社会が、人の手によって、つまり人知によって、設計されて演じられるものゆえ。
そこでは、よく知ろうとする姿勢が、誰にとっても求められる。
ただ、知るという行いにも「完全」はない。
過去から蓄積され、常に増え続ける情報を、自分で全て知るのは無理がある。
つまり人にとって、人知の及ばない部分、自力の及ばない部分は、必然的に存在する。
その部分のなりゆきは、結局、運にゆだねられることになる。
よって、文明社会の中では、
直接的に喜びを引き寄せるために、知ることが必要になり、
間接的に喜びを引き寄せるために、その他にも、正の方向の思いや行いが必要になる。
前者は、人知をよりどころにするもので、
後者は、人知を超えた働きをよりどころにするもの。
日々複雑になっていく、文明社会の中では、
人は知らぬ間に、苦しみに踏み込んでいたりする。たとえば、
人工的な何かを食べることが、体を害することになったりする。
ゆえに、自分を守るには、様々な新しい「教え」を、自ら知ることが必要になる。
日々緊密になっていく、文明社会の中では、
人は知らぬ間に、他者を苦しめていたりする。たとえば、
何かを消費することが、遠い国の自然を破壊することになったりする。
ゆえに、より多くの他者を守るには、様々な新しい「道徳」を、自ら知ることが必要になる。
人知の可能性を試すことは、人にとって抑え難い喜び。
ゆえに、文明社会では、新しいものごとや慣行が、次々に生み出される。
しかし、文明社会が「完全」でない以上、それらが常に喜びをもたらすとは限らない。
充分に経験されていないその一つ一つが、本当に喜びをもたらすかどうかの判断は、
やはり人知によってなされる必要がある。
たとえば、変化していく、家族のあり方、教育のあり方、仕事のあり方、
次々に現れる、人工的な衣食住、人工的な健康法、人工的な治療法、
自然環境へ放出される、人工的な熱、人工的な化合物、
様々な情報媒体によって広まる、犯罪の報道、偏った世界観、
こうした新しいものごとや慣行は、むしろいくらか問題を含むのがふつう。
しかし、その一つ一つを確かめ、知るのは、往々にして難しいもの。
ゆえに、知ることが充分にできないまま、それらに向き合うことも多くなる。
そうした際に、有効な姿勢は、悲観や心配などの暗い思いをもつことでなく、
楽観や感謝などの明るい思いをもつこと。
それはよい運をつくり、自分を守り、他への負の影響を抑えることにもつながる。
詳しく知っても知らなくても、それに向き合う以上は、正の思いをもつことが正解になる。
たとえば、何かを食べるとき、そこには確かめるべき問題が含まれうる。
しかし食べる以上は、喜んで味わうことが、自分の健康を守ることになる。
明るい正の思いは、体の働きを良好にし、また、よい運を引き寄せる。すると、
唾液が優れた解毒剤として働いたり、ありえたはずの害が自ずと遠ざけられたりもする。
つまり、詳しいことを知らなくとも、喜びの方向に思いのかじを切っておけば、
その状況下で最も望ましい方向に、「自動の働き」が導いてくれる。
生とは、もともとそうした、手厚い補佐の上に成り立つもの。ただ、
詳しく知ることで、状況そのものを人の手で改善していけるなら、当然そうしていくべきもの。
文明社会では、人知によって、時に大きなものごとが構築される。
それが善意によるものでも、過失による誤りを含めば、逆に大きな苦しみを他者に与えうる。
つまり、悪意がなくとも、人知の働きによって、苦しみや罪が大きくなりうる。よって、
人知を高度に扱う以上、文明社会では、よく知り、誤りを少なくする努力が避けられない。
ただ、人知が「完全」でない以上、誤りを全てなくせるとは限らない。
あくまで人知を尽くしながら、その先の部分は運にゆだねる他はない。
その部分を左右しうるのは、人々の思いや行いの積み重ねのみ。
社会の中では、日常的に、知らずに誰かを苦しめることが、ある程度避けられない。
よって、その影響を埋め合わせるために、
社会の中では、少しでも誰かを喜ばせることが、誰にとってもたしなみとして求められる。
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社会が、集団として喜びを大きくするには、その能力を高める必要がある。
つまり、判断力と一体性を高める必要がある。
そのためには一人一人が、
集団のためになるものごとを知り、また、互いのことをよく知る必要がある。たとえば、
家族の喜びを大きくするには、家族の一人一人が、
家族のためになるものごとを知り、また、互いのことをよく知る必要がある。
地球全体の喜びを大きくするには、地球上の一人一人が、
地球全体のためになるものごとを知り、また、互いのことをよく知る必要がある。
社会が大きくなるほど、こうしたことを知るのは難しくなる。
ゆえに、集団としての判断力は低下しやすい。
社会全体の喜びを最大化するべく、連立方程式を立てて「喜びの計算」を解こうとしても、
適切な解法を知らなかったり、また、互いのことをよく知らずに方程式を立てたりすれば、
そこから誤った方針が導かれうる。
集団の決めた方針が、最終的に正しいものになるかどうかは、集団の運命や運にもよる。
ただ、集団の今の自力によって、できるだけ正しい方針を導くこともできる。
そのためにはやはり、よく知るということが必要になる。
社会が大きくなるほど、互いのことを知るのは難しくなる。
ゆえに、集団としての一体性は低下しやすい。
社会的な役割分担が進むにつれて、個々の間の間接性が増し、
それを隔てた先のことや、全体のことが見えにくくなれば、様々な問題が生じうる。
たとえば、社会で分業が進むと、食べるものをつくる人は、食べる人と接しなくなる。
手間をかけてつくっても、そこでは相手の反応を知りえない。
手間を省いてつくっても、そこでは相手に知られることがない。
互いの関係が間接的であるほど、
手間をかける意欲を失いやすくなり、手間を省く誘惑に駆られやすくなる。
自分の行いを届ける相手を、直接に知り、その反応を知り、
また相手にも自分の行いを知ってもらえば、手間をかける意欲は保たれうる。
つまり、社会が大きくなるほど、
間接的に隔たった先について、よく知ることが大切になる。
たとえば、社会で分業が進むと、様々な恵みが、規則的に分け与えられるようになる。
そこでは、あらゆるものごとが、人の手で管理されているかのように思えてくる。
人知を超えた働きなどを、感じることが少なくなる。
与えられる一つ一つの出会いに対し、感謝や謙虚さをもちにくくなる。
安定を感じる一方、変化の可能性を見いだせず、充実感や希望をもちにくくなる。
しかし実際、人は日々、自力の及ばない、様々な出会いの運によって、生かされている。
少なくとも、安全の内に一日を終えることは、それなりの運が重なってこそできること。
もし人が、自然の中で生きていれば、そうしたことははっきり知れる。
そこでは、自然の産物との出会いや、天候の安定など、
自力ではどうにもならないことに依存して、祈るように生きることになる。
人の手による社会で生き、そこから様々な恵みを間接的に得ていても、
その社会が一つの集団として、もともとの恵みを直接的に得る現場までさかのぼれば、
やはり出会いの運が働いているという構図は変わっていない。
もし人が、集団を率いる立場になったり、集団のことを自分のこととして捉えたりすれば、
そうしたことははっきり知れる。
そこでは、人知を超えた働きを、否応なく感じることになる。
与えられる一つ一つの出会いに対し、感謝や謙虚さをもてるようになる。
不安定さを感じる一方、変化の可能性を見いだし、充実感や希望をもてるようになる。
つまり、社会が大きくなるほど、
直接的に見えにくい全体について、よく知ることが大切になる。
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あとがき
ここでは、知るということをキーワードに、より日常的な事柄を取り上げました。
物知りになろうとも思わず、自然体で生きる人でも、いろいろな意味で、
知るということが最低限強いられてくるのが、文明社会だと思われます。
次号では、引き続き、知るということをテーマに、偽りや誤解について、
また、知る内容を選ぶことについて考察します。
それではまた。
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発行者 哲楽人 週2回発行(月曜・金曜)
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