「喜びの詩」 第38号 2008年8月22日
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目次
□ 世界の成り立ちについて
□ 人のありようについて
□ 生きることについて
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
■ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
○ 社会
○ 教えと道徳
● 集団 (●前半/○後半)
○ 知ることの必要
○ 社会での価値観、世界観
□ いくつかのものごとについて
(本号に掲載するもの:■●)
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─────── 集団
集団とは、複数の個が集まって、一つのまとまりとして動くもの。
人が集団を成すのは、個人で全ての役割をこなすよりも、
それぞれの人が役割を分担し、互いの得意を合わせ、不得意を補い合う方が、
全体として、より高い水準の達成ができるゆえ。
つまり、より大きな喜びのために、人は集団を成す。
集団は、集団全体の喜びを最大化するために、そのふるまいの方針を決める。
それを決める判断も、ある程度、役割分担の中で行われる。つまり、
集団の一員になると、喜びへ向かうための判断を、ある程度、他者にゆだねることになり、
その分、個人の負担は楽になる。
「もともとの意識」が、ある個性を「演じ」ることで、個体としての人が成り立つように、
人が、社会的な役割を演じることで、一つの集団が成り立つ。
集団とは、人の手でつくられる、新たな主体的存在にあたる。
人は、初めから社会的役割を身に付けている訳ではない。
たとえば、親という役割、指導者の役割、仕事上の役割、
いずれの役割であっても、それを演じることを通して、その役になりきってゆく。
そして人は、多くの場合、いくつかの集団に属し、いくつかの役割を演じ分ける。
その時々の役割によって、
集団の活動を積極的に体験する立場になったり、それを補佐する立場になったりする。
集団は、一つの主体的存在としてふるまい、他の集団と関わりをもつ。
そこに、集団の能力や、人格というものが立ち現れる。
同じく、集団の成長や、善行というものも立ち現れる。
束になった思いや行いに、「具現化作用」や「収支平衡作用」が働き、
集団の運命というものも立ち現れる。
これらは実際には、一人一人の能力や人格、成長や善行、そして運命、
これらの重ね合わせによって成り立ち、また、これらの中に織り込まれて存在する。
さらに、一つの個として動く集団が、複数集まって、
それぞれの役割を演じれば、より大きな集団が成り立つ。
それは、集団の手でつくられる、新たな主体的存在にあたる。
集団が確かな主体として、一体となって動くには、
一人一人が集団のことを自分のこととして捉えること、つまり愛の思いが必要になる。
この思いが強いほど、その集団は有機的な統合体に近づき、
この思いが弱いほど、その集団は単なる寄せ集めに近づく。
家族や、国や、仕事上の組織など、あらゆる集団にこれはあてはまる。
たとえば、家族という集団は、
それを外側から守る役割と、内側から支える役割、その両方が演じられて成り立つ。
外側から守ることで、家族は立ちゆくことができ、
内側から支えることで、家族は中身のあるものになる。
これらの役割を、複数の人で分担する場合、それぞれを演じることが、時に辛くもなりうる。
ここで、家族への愛が弱ければ、
役割を果たすのを損に感じたり、他方の役割を羨んだり、役割を放棄したくなったりしうる。
ここで、家族への愛が強ければ、
目先の辛さがあっても、家族の喜びを自分の喜びにすることで、役割を果たし続けていける。
また、家族の誰もを自分のように大切に思うことで、辛い役割をむしろ進んで担おうと思える。
こうした愛をもった姿勢が、集団を一体のものにする、原点の働きにあたる。
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より大きな喜びのために、集団を成していても、
集団が「完全な」ものでない以上、そこに苦しみも生じうる。
集団は、「完全な」判断力をもつ訳ではない。
人が時に、より大きな喜びへ向かうための判断を誤るように、
集団も時に、方針の選択を誤り、全体で苦しみへ突き進んでしまいうる。
すでにいくらかの誤りに踏み込んでいれば、
そこから喜びへ向かう最善の方針をとっても、時に犠牲的な苦しみを伴いうる。
集団は、「完全な」一体性をもつ訳ではない。
集団を成す個々の間で、全ての情報が共有される訳ではない。
役割を分担する中で、互いの間接性が積み重なり、いわば情報の温度差が生じうる。
間接的に隔たった個々の状況が、互いに汲みとれなくなりうる。
それゆえ、集団の中に、何かのしわ寄せや、無責任なものごとが生じてきうる。
こうした「不完全な」判断力と一体性のもとで、集団は時に、
集団の喜びのために、誰かを苦しめるという方針を、選ぶことにもなりうる。
そしてその方針のもとで、誰かを苦しめる役割が、個人に強いられることにもなる。
個人がその役割を望まないとき、そこに、社会における特有の苦しみが生まれてくる。
その際、個人は、集団の方針が本当に正しいかどうか、つまり最終的に、
その方針が、より多くの人に、より大きな喜びをもたらすものかどうか、考えることになる。
その方針が、その時点で最善だと考えられるなら、人はやむなく、それに従わざるをえない。
その方針が、自分では正しいかどうかわからないなら、人はやはり、それに従うことになる。
その方針が、誤りと考えられるなら、人はいくつかの中から、行いを選ぶことになる。
建設的な怒りの方向のもと、方針に従わず、その誤りを訴えて方針を変えさせるか、
破壊的な怒りの方向のもと、方針に従わず、集団の一員であることをやめるか、
悲しみの方向のもと、方針に従い、自分の判断を捨てて身をゆだねるか。
どの場合であっても、他者に与える影響は、正と負の両方がありうる。
それを総合した全体が、正になるか負になるかを、見極めることが肝要になる。
「収支平衡作用」によって個人に返される結果も、正と負の両方がありうるとしても、
それを総合した全体は、他者への影響の全体を、やはり反映したものになる。
喜びのために成したはずの集団が、人を苦しめるという悲劇は、
集団が自らの能力を高めることで、減らしていける。
それはつまり、集団の判断力と一体性を高めるということ。
集団が判断力を高めるとは、
より大きな喜びへ向かうための、集団の方針を、誤りの少ないものにすること。
結局、どのような方針をとるかという判断次第で、
個人の能力がどう発揮されるかが決まり、集団の実際の能力も決まる。
集団が一体性を高めるとは、
集団を成す個々が、集団への愛の思いを強めて、有機的な統合体に近づくこと。
必要な情報を共有し、互いの喜びや苦しみの状況を、汲みとれるようになること。
その理想的なかたちは、集団全体の情報を把握しながら、個々の役割を演じること。
つまり、個の中に、全体の姿を宿して動くこと。
このかたちは、生物の体のあり方に相似している。
細胞の一つ一つは、体全体の情報を、遺伝子として宿しながら、
自身が位置する場所に応じて、固有の役割を演じている。
そしてそこに、最も有機的な統合体が成り立っている。
集団の一員として、社会的役割を演じることは、個人が、ある自由度の制限下で動くこと。
その制限が強ければ、集団の一体性は高まる一方、個人は束縛の苦しみを感じうる。
それは、人の手によるその制限が、制限と認識できるものゆえ。
集団への愛の思いを強める時、人は進んで、その束縛の苦しみを受け入れるようになる。
しかし同時に人は、集団の一人一人に、自由の喜びを与えたいと望むようにもなる。
結局、人が成す集団にとって、望ましい一体性とは、
自由度の制限を、単に強めたものでなく、適度に設定したものになる。
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あとがき
ここでは、集団というものの本質や挙動について考察しました。
ちなみに、生物の細胞は、ほとんど自動的に動きながら、かすかに自由な動きをもつ存在で、
その自由度の中では、生物の一部分であるという制限を、制限とは認識しないものだと
考えられます。
次号では、集団による対立や戦争というものについて考えます。
それではまた。
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発行者 哲楽人 週2回発行(月曜・金曜)
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