「喜びの詩」 第33号 2008年8月4日
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目次
□ 世界の成り立ちについて
□ 人のありようについて
□ 生きることについて
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
■ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
○ 他者との間の感情と体験
○ 悪と罪
○ 勝利感と敗北感
○ 敗北感の解消
● 他者への典型的な行い (●前半/○後半)
□ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ いくつかのものごとについて
(本号に掲載するもの:■●)
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─────── 他者への典型的な行い
他者を負かすという行い、
それは往々にして、自分の勝利感の欠乏や敗北感の蓄積が、原因になって生まれるもの。
つまり、他者を苦しめるのは、往々にして、自分の苦しみが原因。
もし自分が他者を負かそうとしたら、これを自覚すべき。
また、他者に負かされたときも、これに気づくべき。
互いにこれを知っていれば、負かす行いは抑制されうる。
そして、互いに勝利感を与え合えば、負かす行いは予防されうる。
単に負かし合うこと、勝ちを奪い合うことは、争いであり、負の関係。
争いを応用し、それを正の関係に高めようとするのが、競い合うこと。
競い合いとは、
負かす行いを、純粋な試みの一つとして捉え、
勝ち負けの構図を、表現の豊かさの一つとして捉え、
つまりそれらを、「遊び」という広い喜びの内に捉え、
互いに合意した上で、ある枠組みの中で負かし合うこと。
競い合うことの目的は、他者を負かす勝利感よりも他にある。
それは、遊技性の喜びや、創造性の喜び、そして、
困難に打ち勝って達成する勝利感、つまり成長の喜びや、
応援する他者を喜ばすことの喜び、つまり善行の喜び。
ここでは、たとえ負けても、敗北感をしのぐ様々な喜びがありうる。
つまり競い合う関係は、総合的に、喜びを与え合う正の関係になりうる。
ただ、競い合いも、勝ち負けに集中するほどに、
単なる争いの様相を強めたり、負けた時の敗北感を大きくしたりする。
それを和らげるのが、
競い合って勝った後、相手を讃え、相手に礼を述べ、相手に思いやりを示すこと。
これは相手に、肯定と、感謝と、愛を示すこと。
これは相手に勝利感を与えること、つまり善行の一つであり、人格の高い行いにあたる。
他者を負かすことは、つきつめれば、戦争にもつながる。
しかし、平和を主張することも、戦争を主張する人を負かそうとする面をもつ。
結局、他者を他者として見る限り、勝ち負けという構図は付きまとう。
それを緩和しうるものがあるとすれば、それは、他者を他者と見ず、自分と一体と見る姿勢。
自分も他者も、その個体を「演じ」ているのは、同じ「もともとの意識」。
この視点に立てば、最終的に、他者を負かす行いを抑制していける。
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他者を許すという行い、
それは、他者から苦しみを与えられた際に、
破壊的な怒りの方向のもとで相手を負かす、ということを放棄し、それを相手に示すこと。
もちろんこれは、妥当な償いを求めないこととは異なる。
もしそこで、相手を負かす行いをして、勝利感を得れば、
相手には、返されるべき苦しみが返ったことになる。
つまり、それ以上相手には、負の方向に「収支平衡作用」が働くことはない。
しかし、自分が苦しみに出会うに至った原因は、いくらかは自分にもある。
よって、自分が得た苦しみを、全て相手に返せば、新たな負の原因をつくることになり、
むしろ自分に対して、負の方向に「収支平衡作用」が働くことになりうる。
こうしたことを防ぎ、負の体験の循環を断つのが、許すという行い。
これはある面、相手への善行にもなり、自分に喜びが返ってくることをも期待できる行い。
他者を許すことの一つの目的は、自分を守り、自分が喜びへ向かうことにある。
自分が相手を負かさなくとも、「収支平衡作用」は、必要な苦しみを相手に返す。
そのままにしていれば、相手はいずれ、その苦しみに出会うことになる。
しかし相手が、許されたことに感謝し、行いを改め、善行をすれば、
出会うはずだった苦しみを、未然に打ち消すこともできる。
つまり、自分が相手にすぐに苦しみを返さないことで、
こうしたことが成り立つ余地が生まれる。
こうして相手に、苦しみを避ける機会を与えるのが、許すという行い。
これはある面、「身代わり」と似た、自己犠牲的な行い。
他者を許すことのもう一つの目的は、相手を守り、相手を喜びへ向かわせることにある。
つまり、他者を許すのは、他者のためであり、自分のため。
許さないことで生まれる正の結果は何もない。
時に、相手を絶対に許せないようなことが、あるようにも思える。
それは、相手をどんなに苦しめても、自分が受けた苦しみを帳消しにできず、
喜びの収支が平衡しえないと思えるということ。しかし、
「収支平衡作用」の処理能力が無限なら、収支は必ず平衡せずにはいないはず。
また、喜びの表現が無限に展開していくなら、永久に打ち消されない苦しみもないはず。
そう見れば、絶対に許せないということもなくなりうる。
相手の能力不足による過失で苦しめられたなら、それは許せても、
相手の悪意による行いで苦しめられたなら、それは許せないとも思える。
しかし、悪意をもつということは、
他者を苦しめれば喜びが得られるはずだという、誤った判断をもつことであり、
結局は、相手の成長不足であり、能力不足にあたる。
そう見れば、悪意をもった相手も許せるようになりうる。
自分も他者も、その個体を「演じ」ているのは、同じ「もともとの意識」。
この視点に立てば、最終的に、他者を許していける。
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他者を肯定するという行い、
それは、他者との関係の中で、あってもなくてもいいものでなく、
むしろ決定的な役割を果たしうるもの。
人は往々にして、他者のよい点はほめずにいられても、よくない点は指摘せずにはいられない。
それは、よくない点を放っておけば、自分が苦痛を被ることになりかねないゆえ。
一方、
人は往々にして、自分のよい点がほめられたときに、よくない点の指摘も受け入れられる。
それは、喜びの収支上、勝利感をもらうことで、敗北感も受け入れやすくなるゆえ。
よって、人はほめることを怠っていると、よくない点だけを指摘することになりやすい。
すると、相手は反発し、指摘を受け入れなくなりやすい。
これは往々にして、他者との関係を悪化させるきっかけになりうる。
相手の反発を避けて、指摘をせずにいれば、自分が一方的に苦しみを抱え込むことになる。
その不満が増幅すれば、それは少しずつ態度に出るか、いつか一気に噴出しうる。
そうなれば、いずれにしても相手から、余計に大きな反発を招くことになりうる。
他者との関係を良好に保つには、
時に、よくない点の指摘を、相手受け入れてもらう必要がある。そのためには、
普段、相手のよい点を惜しまずにほめ、肯定しておくことが肝要になる。
つまり、他者を肯定するのは、他者のためであり、自分のため。
人は往々にして、自分のよい点がほめられたときに、他者のよい点もほめて返せる。
それは、喜びの収支上、勝利感をもらうことで、勝利感を返しやすくなるゆえ。
しかし、互いに相手からの肯定を待っているばかりでは、肯定し合う関係は始まらない。
自分が肯定されたいなら、むしろ相手のことを先に肯定することが有効になる。
他者に評価を与えると、相手の思いは、「前進」か「停滞」か「後退」へ向かう。
どの方向へ向かうかは、相手の起こす感情によって決まってくる。
ほめられると、人は、それを進んで受け入れ、喜びを起こす。
喜びによって、思いは満足から「停滞」へ向かうか、さらなる「前進」へと向かう。
けなされると、人は、それを受け入れて悲しみを起こすか、反発して怒りを起こす。
悲しみによって、思いは受動的な「停滞」へ向かい、
怒りによって、思いは破壊的な「後退」へ向かうか、建設的な「前進」へと向かう。
評価を受け入れると、自分がその通りだと思うことで、それが具現化へ傾き出す。よって、
ほめられ、それを受け入れた「停滞」の思いは、「前進」へと傾きやすい。
けなされ、それを受け入れた「停滞」の思いは、「後退」へと傾きやすい。
よって、人の思いは、
ほめられることで、「前進ぎみの停滞」か「前進」へ向かい、
けなされることで、「後退ぎみの停滞」か「後退」か「前進」へ向かう。
つまり、けなされて「前進」へ向かうことを除けば、人の思いは、評価の方向に導かれる。
最終的には、自由な選択や、気力の変動によって、思いの方向は変わりうるとしても、
相手に与える評価は、基本的な働きとして、予言としての性格をもつことになる。
相手の思いを「前進」に導こうとするとき、
ほめるべきか、よくない点を指摘すべきかは、相手の気力の状況によって異なる。
ただ、基本的な位置づけは、ほめることが「主食」で、よくない点の指摘が「薬」。
「主食」によって健全な成長があり、その上で、必要な時の「薬」が有効になる。
「薬」だけを常食すれば、毒性による害の方が大きくなる。
一般に、相手を肯定する基準は、
相手が、より多くの他者に比べて、何か高い水準を達成していること。
しかし、それぞれ違った個性を「演じ」ることに意義がある、
という視点に立てば、他者と比べることの意義は薄れる。
するとここでは、相手自身の進歩があることが、相手を肯定する基準になる。
しかし、どんな「意識の属性」も無限の進歩の内にあり、その全体としては「完全」である、
という視点に立てば、進歩の現状がどうあれ、そのままで「完全」の内にあると見なせる。
するとここでは、相手が存在するということ自体が、相手を肯定する基準になる。
つまるところ、存在するだけで、誰もが肯定される資格をもっていることになる。
そして肯定されることで、潜在する可能性を、より現し出すことになる。
どんな他者も、その個性を「演じ」ているのは、「完全」である「もともとの意識」。
この視点に立てば、最終的に、他者を肯定していける。
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あとがき
負かすことに悪い面があるのは確かですが、競い合うことに善い面があるのも確かでしょう。
そしてそこに、スポーツ選手という職業の意義も成り立つことになります。
ちなみに、ボクシングの試合の後、勝利した選手が、
相手の選手の腕を高く上げたり、礼を告げたり、肩をたたいて励ましたりする光景が
見られますが、これはまさに、肯定と、感謝と、愛を、相手に示していることになります。
人を許したり肯定したりする行いは、人間的で価値あるものですが、
ここでは、それをムードとして語るのではなく、ドライな論理で描き出そうとしました。
次号では、他者への行いの内、感謝すること、愛することについて、掘り下げます。
それではまた。
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発行者 哲楽人 週2回発行(月曜・金曜)
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