「喜びの詩」 第17号 2008年6月2日
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目次
□ 世界の成り立ちについて
□ 人のありようについて
■ 生きることについて
○ 生きる目的
○ 喜びの最大化
● 成長と善行
○ 刹那主義と達成主義
○ 利己主義と利他主義
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ いくつかのものごとについて
(本号に掲載するもの:■●)
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─────── 成長と善行
何らかの達成をするとき、つまり成長をするとき、そこに質の高い喜びが生まれる。
成長には、大きく二つの面がありうる。それぞれにあたるのが、
「意」の能力を高める成長と、「識」の能力を高める成長。
前者はいわば、喜びを叶える力を高めるもので、「表現の面」での成長。
後者はいわば、喜びを捉える力を高めるもので、「味わう面」での成長。
生という体験が、「意、識」の両方を常に伴うように、
実際の成長も、二つの面のどちらか一方だけでなく、常に両方をいくらか含む。
主に「表現の面」での成長にあたるのは、
なしえなかったことに取り組むことや、
より高い見識や技能を身につけること、
より高度な創作、発見、事業などを成功させること、
喜びを最大化するための判断を、誤りの少ない、より確かなものにすること、など。
主に「味わう面」での成長にあたるのは、
ものごとの中に感動や美を見いだすことや、
ありふれたものごとにありがたさを見いだすこと、
どんな状況に置かれても、常に自分の中に喜びを保つこと、
苦しみを苦しみと思わず、それを乗り越えることに喜びを見いだすこと、など。
一見、同じことを繰り返していても、
それが、継続という取り組みであったり、
そこに、常に新たな喜びを見いだしていたりするなら、
前者は「表現の面」での成長であり、
後者は「味わう面」での成長。
つまりそれは飽きの来ないもの。
人の成長の内、他者からわかりやすいのは、「表現の面」での成長。
ただ、それは成長の全てでなく、半面にすぎない。
残る半面の、「味わう面」での成長は、他者からわかりにくくとも、
当人の実際の喜びを、大きく左右するもの。
人の本当の喜びの大きさは、社会的行動の大きさといった、外面的なものからは測れない。
喜びを捉える力が欠けていれば、どんな行いをしていても、喜びは小さいものでありうる。
逆に、喜びを捉える力が充分にあれば、たとえあらゆる社会的行動を失っても、
今生きてこの世界を味わっていることのすばらしさを、大きな喜びにしうる。
これは決して失われることのない、生の根本的な意義であり、喜び。
こうした喜びをしっかり捉え、味わえるようになることも、
大きな社会的行動に劣らず、人の成長として大きなもの。
「表現の面」での成長が、肉体の状況などによって、仮に難しくなったとしても、
「味わう面」での成長は、ずっと続けうるもの。
つまり成長は、誰にとっても、常に開かれているもの。
もちろん、ある程度までは、両面での成長を均衡させることが望ましいこと。
たとえば、積極的に現状に働きかける力と、我慢強さ、その両方を育むこと。
前者は、のびのびと喜びを望み、それを実現していく力。
後者は、苦しい状況でも、自分の中に最低限の喜びを保つ力。
それぞれを育むことは、「表現の面」と「味わう面」、それぞれでの成長にあたる。
成長をすることは、能力を高めることにあたる。
しかし能力の高さそのものは、最終の目的ではない。
どんなに高い能力においても、成長がないなら、苦しみを味わいうる。
どんなに低い能力においても、成長があるなら、喜びを味わいうる。
能力の高さにかかわらず、常にそこから成長をし続けるところに、質の高い喜びが生まれる。
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他者を喜ばせるとき、つまり善行をするとき、そこに質の高い喜びが生まれる。
他者を喜ばせると、その分の喜びが、自分に返ってくる。
その喜びは、「収支平衡作用」を経て、様々なかたちをとりうる。
直接相手から、肯定され、感謝され、愛されることも、その内の一つ。
意図せずに、結果的に他者を喜ばせても、それは善行。
それによって、他者から肯定され、感謝され、愛されたなら、
今度は、その喜びをもっと得るために、人は意図して善行に向かうようになる。
ここで人は、他者から肯定されたい、感謝されたい、愛されたいゆえに、善行をする。
つまり、自分に返って来る喜びが、まず善行の目的になりうる。
しかしここで、相手から直接返される喜びを期待するあまり、
それが返されなかったときに相手を恨めば、本末転倒になる。
恨む思いが高じれば、相手への負の影響になりえ、すでに与えた正の影響を打ち消しうる。
本来、与えた喜びは、いつ、どんなかたちで返ってくるかわからないもの。
返ってくる喜びを期待するなら、特定のかたちにとらわれないことが肝要になる。
人は成長するにつれて、意識の上で、自分というものを拡張させ、
家族や社会といった他者を、自分の一部と見なすようになりうる。
他者を自分と一体と見なす、この「拡張した自分」においては、
「個としての自分」の喜びよりも、他者の喜びが、むしろ自分にとって真の喜びになりうる。
人の動く基準が、自分の喜びの最大化にあっても、
自分が拡張すれば、他者の喜びの最大化が、自分の動く基準になりうる。
これは、他者への愛が強まった状態にあたる。
ここで人は、他者の喜ぶ姿が見たい、他者の役に立ちたいゆえに、善行をする。
つまり、他者が喜ぶこと自体の喜びが、善行の目的になってくる。
しかしここで、他者の喜びを優先するあまり、
「個としての自分」が立ちゆかなくなれば、本末転倒になる。
「拡張した自分」も、「個としての自分」があって成り立つもの。
そもそも、個が危うくなれば、善行自体もできなくなる。
「拡張した自分」の喜びを求めるなら、自他の区別にとらわれないことが肝要になる。
善行の目的が、自分に返ってくる喜びであれ、他者が喜ぶこと自体の喜びであれ、
その喜びについて、かたちにとらわれず、自他の区別にとらわれないなら、
その差はなくなる。
いずれにしても善行は、
相手にとって喜びであることに変わりなく、
自分にとっても喜びであることに変わりない。
善行の具体的なかたちは、小さな親切から大きな事業まで、様々ありうる。
他者に対し、肯定や、感謝や、愛を示すことも、その内の一つ。たとえば、
言葉によって、ほめたり、礼を述べたり、応援したりすること、
表情によって、笑顔を与えること。
こうした行いも、大きな事業に劣らず、善行として大きなもの。
むしろこうした行いは、時にどんな実用的な行いよりも、大きな喜びを相手に残しうるもの。
それは、相手の人生に刻まれる、かけがえのない贈りものになりうるもの。
そして、こうしたことをするのに要る物はなく、こうしたことをして減る物もない。
つまり善行は、誰にとっても、常に開かれているもの。
善行をすることは、人格を高めることにあたる。
しかし人格の高さは、目指すものというより、善行を積み重ねた結果として残るもの。
人格の高さにかかわらず、常にそこから善行をし続けるところに、質の高い喜びが生まれる。
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あとがき
「成長すること(=何らかの達成)」や「他者を幸せにすること」は、
人が目指すべきこととして、また人生の目的として、よく説かれる内容です。
これらはいずれも、質の高い喜びをもたらすものですが、
現実には人は、喜びの量も必要とします。つまり、
「今をただ楽しむこと」や「自分を喜ばせること」も、人生の目的の一角を成します。
ただ、そのさじ加減が問題になります。
次号では、「刹那主義」と「達成主義」というテーマで、その辺について考察します。
それではまた。
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発行者 哲楽人 週2回発行(月曜・金曜)
バックナンバー掲載サイト http://www.yorokobi.info
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