「喜びの詩」   第16号 2008年5月30日

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目次

□ 世界の成り立ちについて
□ 人のありようについて
■ 生きることについて
   ○ 生きる目的
   ● 喜びの最大化
   ○ 成長と善行
   ○ 刹那主義と達成主義
   ○ 利己主義と利他主義
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ いくつかのものごとについて

(本号に掲載するもの:■●)
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─────── 喜びの最大化


表現とは、ある限定したかたちをとるもの。
ゆえに、生という表現も、一刻一刻にとるかたちを、限定的に選ぶことで成り立つもの。
ここで人は、喜びがより大きくなるように、それを選ぶことになる。
つまり生において、自分が今何をするかを判断するよりどころは、
質と量を含めて総合的に、喜びをいかに最大化するかにある。

何をするのを選び、何をするのを手放すか、どれが自分にとって、より大きな喜びか、
それを判断するための「喜びの計算」は、
生まれてすぐから求められ、算術を学ぶ前から身につけるもの。

何をより大きな喜びと感じるかは、人により、また時により異なる。
それは主に、喜びの質をどう捉えるかによる。
喜びの量については、味わえる回数や、時間の長さが尺度になり、
喜びの質については、個人の感受性が尺度になる。
今の自分が捉えられない質の喜びは、喜びとは感じられない。
しかし一度その味を知れば、それが、喜びの質を測る新しい基準になる。

人は、安易な快楽の喜びを得ても、そのままでは、
いずれ「飽き」というものによって、苦しみを得てしまう。
飽きは、新たに何も実現しようとしないでいると、生まれるもの。
つまり「具現化作用」に積極的に働きかけないでいると、生まれるもの。
これによって、人はもっと違った喜びへと、駆り立てられることになる。

人は、他者を苦しめて一方的に喜びを得ても、そのままでは、
いずれ「収支平衡作用」によって、与えた分の苦しみを得てしまう。
これによって、人はもっと違った喜びへと、駆り立てられることになる。

そして人は、
一見困難なことをやってみて、それを乗り越えて達成する喜びを知るようになる。
他者を喜ばすことをやってみて、思わず自分に返ってくる喜びを知るようになる。
それは、それまでとは違った味わいの喜び。
より惹きつけられる、どこかで求めていた喜び。
時間的に短くても、大きな喜び。つまりそれは、質の高い喜び。

一度これを味わえば、人は進んでその行いをするようになり、
より質の高い喜びへ向かうようになる。
つまり、人は最終的に、そこへ向かう他ないようにできているもの。

ある達成をすることは、つまり自分の「成長」にあたる。
他者を喜ばすことは、つまり他者への「善行」にあたる。
つまるところ、「成長」と「善行」の喜びが、より質の高い喜びにあたる。
安易な快楽の喜びや、他者を苦しめて得る喜びは、より質の低い喜びにあたる。

人によっては、質の高い喜びへ、なかなか向かおうしとないこともある。
それは、その喜びの味を、本当に知るまでにかかる時間が、人によって異なるゆえ。
ただ、大きな喜びがそこに広がっているのに、
自分を小さな喜びに、永久に押しとどめておけはしない。
どんなに時間がかかっても、誰もが最終的に、より大きな喜びへ向かうことになる。
社会の中では、教えや道徳によって、その時間が早められることにもなる。

人は善をなすものだとする見方と、
人は悪をなすものだとする見方は、ともに成り立ちうる。
いずれも、人が喜びを求めている点では同じ。
ただ、求めている喜びの質に、違いがあるのみ。
悪をなす人も、今の自分が知りうる最大の喜びを求めているだけ。
善をなすことで得られる、より質の高い喜びを知れば、自ずと善をなすようになる。
つまり、人が悪をなすという見方は、一時的に成り立つのみ。
一方で、人が善をなすという見方は、永続的に成り立つもの。

質の高い喜びを目指すことは、人における際立った特性。
これは、意識の「目覚め」を高めることに一致する。

自分の成長は、つまり、能力の向上にあたる。
他者への善行は、つまり、人格の向上にあたる。
成長の結果が、能力の高さになり、
善行の結果が、人格の高さになる。
成長と善行は、追求するにつれ、分けられない一体のものになる。
成長は善行に資するものになり、善行は成長に資するものになる。

ありありとした現実的な世界では、何ごとの達成も、
一足飛びには進まず、一つ一つ手順を踏んで進むもの。
それはありありとした世界に特有の、表現の豊かさである一方、
人にとって往々にして、目先の苦しみとも映るもの。
つまり、善行を含む成長にしても、成長を含む善行にしても、
質の高い喜びを得る際には、およそ、目先の苦しみを乗り越えることが付きものになる。

実際、人は誰しも、多少の苦しさを伴う日常を送るもの。
最終的に、自ら選んでそうしているのは、
たとえば、よりよい将来のためや、家族の幸せを守るため。
それはつまり、自分の成長や、他者への善行のため。
やはりそうする方が、総合的に、喜びが大きいと考えるゆえ。

喜びの質の高さを目指すあまり、喜びの量が欠乏すれば、喜びは最大化しないことにもなる。
質と量の総合をもって、喜びは最大化する。
よって人は、質の高い喜びの味がわかっても、それに向かうだけでなく、
時に気晴らしをし、時に自分を楽しませ、量の豊かな喜びを味わう。
つまり、誰もが自然なふるまいの中で、喜びの最大化を図っている。

人はその際、喜びの質を取るか、量を取るかも、天秤に掛けている。
これを測る尺度は、喜びの量をどれだけ重視するかという、やはり個人の感受性による。
人は誰しも、喜びの量の追求から始まって、質の追求へと向かい、
それらの総合の中で、喜びを最大化していくことになる。

人生が、喜びを体験するためにあるとすれば、
より大きな喜びを望むことは、慎むべきことでなく、むしろ進んですべきこと。
小さな喜びにとどまることが、むしろ問題になる。
ここで目指すべきは、質の高さを含んだ、真に大きな喜び。
真に大きな喜びなら、どんなに得ても、得すぎることはない。また、
真に大きな喜びへの近道なら、どんなに使っても、使いすぎることはない。



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 あとがき
「大きい」というのは量的な表現ではありますが、ここでは、
質が高い喜びや、量が豊かな喜びを、合わせて「大きな」喜びと呼ぶことにしています。
(他に適当な表現を見いだせていません)
微生物も人も、喜びへ向かって生きていることに変わりなく、ただ、
一方にとって喜びとはかすかな快感で、一方にとって喜びとはより豊かな質を含みうるもの、
と見ることができます。
次号では、質の高い喜びをもたらす、「成長」と「善行」について考察します。
 それではまた。
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発行者 哲楽人  週2回発行(月曜・金曜)
バックナンバー掲載サイト http://www.yorokobi.info

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