「喜びの詩」 第13号 2008年5月19日
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目次
□ 世界の成り立ちについて
■ 人のありようについて
○ 体との連動
○ 眠りと死
○ 逸脱現象
○ 可能性
○ 運命
● 他者
○ 神
□ 生きることについて
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ いくつかのものごとについて
(本号に掲載するもの:■●)
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─────── 他者
人は必ず、他者と関わって生きる。
そして、他者の数だけ、複数の意識が存在しているように見える。
しかし、「個体の個性」は複数あっても、それを「演じ」る「もともとの意識」は一つ。
意識は新しく生み出されうるものでなく、もともと一つ存在するもの。
それはもともと、存在の全てであるゆえ、一つのもの。
たとえば、一人の子供が人形遊びをしている様子を想像してみる。
子供は、複数の人形に対し、それぞれの性格を与える。
そして人形を一つずつ動かし、演じる。
演じている間は、その役になりきり、その個性の範囲内で自由に動く。
他の役に移る時や、舞台をしつらえたりする時は、一時中断が入るかもしれない。
しかしそれは、人形の世界に流れる時間の外の話。
子供が「人形時間」の外にいて、様々な調整をしても、
「人形時間」の中では、複数の登場人物は同時に生き、ものごとは自然に推移している。
いわば「人形の認識」にとっては、そこはあくまでもつじつまの合った世界。
実際の体験世界は、こうした遊びを、高度にしたものにたとえられる。
つまり、時間と空間の外にある、一つの主体の活動は、
時間と空間の枠組みに沿って現れる際、複数の主体の姿をとりうる。
これが、一つの「もともとの意識」において、「他者」という表現が成り立つ仕組み。
仕組みと、無限の可能性があれば、どんなに多くの他者も、やはり成り立たせうることになる。
ここで、ある見方が生まれる。
全ての生命体にとって、自分とは、「もともとの意識」が「演じ」ているもの。
そして、「自動の働き」も含め、あらゆる他者も、「もともとの意識」が「演じ」ているもの。
それはつまるところ、もともとの自分が「演じ」たもの。
役になりきって「演じ」ている間は、認識の制限によって、それを認識できないだけ。
つまり、全ては壮大な自作自演。
また、全ての体験は、自分との対話。
これが、他者というものについての、最もつきつめた見方。
「他者」という表現が成り立つことで、役同士の間に、相互作用の物語が生まれてくる。
「舞」が「群舞」になって豊かさを増し、そこに尽きない喜びが生まれてくる。
この展開は、生における「多数の展開」に沿うものになる。
他者が生まれることで、自分だけではできなかった行いが、確かに成り立つようになる。
それはたとえば、互いに競うこと、肯定すること、感謝すること、愛すること。
競い合うことは、他者がいて初めて成り立つこと。
他者と比べて自分を省みることで、能力の向上が駆り立てられ、
自分だけでは達し難い高みに、達しうるようになる。
肯定し、肯定されることは、他者がいて初めて成り立つこと。
自分の存在や行いについて、その価値を最も信じようとしているのは自分。
しかし、自分自身が評価しても、それは時に確証になりにくい。
他者から肯定されることで、その確証が得られるようになる。
感謝し、感謝されることは、他者がいて初めて成り立つこと。
感謝とは、自分の喜びの思いを、恩のある相手に向けたもの。
他者との間で、互いを喜ばせ、感謝を返し合うことで、
自分だけでは得られない、大きな喜びが得られるようになる。
愛し、愛されることは、他者がいて初めて成り立つこと。
愛とは、「合い」、つまり他者を自分と一体と見なし、他者の喜びを自分の喜びとする思い。
一つである「もともとの意識」が、あえて個別の姿を「演じ」、改めて愛することで、
一体という状況を、表現として味わえるようになる。
人は時に、他者にもたらされる「因果作用」の結果をも、変えることができる。
たとえば、他者に負の結果がもたらされる際に、
思いや行いによって、自分がその結果を引き受けることができたりする。
これは「身代わり」というもの。
自分が「身代わり」になっても、そのままでは「因果作用」は働き続ける。
他者に正の影響を与えた自分には、いずれ正の結果がもたらされ、
相手には、もたらされるはずだった負の結果が、改めてもたらされることになる。
ただ、そうなるまでの間に、相手が思いや行いを改め、正の思いや行いをもつようにすれば、
改めてもたらされようとする負の結果を、未然に打ち消し、別の結果に変えられる。
つまり、受けるはずだった負の結果を、受けずに済むことになる。
つまり「身代わり」とは、負の結果がもたらされる時間を遅らすことで、
相手に、思いや行いを改める機会を与えること。
当人の因果は、最終的に、当人が清算するしかないとしても、
他者からのこうした助けを、そこに加えることはできる。
これも、他者という表現の豊かさの一つ。
ふつう他者との間でやりとりされるのは、様々な行い。
行いを通して、互いの思いを伝え合う。
話し、聞き、記し、読むというのも、これの内。
しかし時に、思いが直接やりとりされることもありうる。
人が発した思いは、「自動の働き」の中に入り、その全体に共有される。
それは、具象的な表現として見れば、全ての体験世界に伝わるというかたちをとることになる。
つまり、思いは、全ての他者のもとまで届けられることになる。
ただ、それを受けとるのは、それに同調する思いをもった他者のみ。
直感などの「逸脱現象」として、それを受けとることになる。
無数の他者が発した、無数の情報がそこにあっても、人が受けとれるものは限られる。
逆に、人がある傾向の思いをもち続ければ、その反対の思いは受けとらずに済む。
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複数の他者が存在するとき、そこに社会というものが成り立つ。
人は、人知の可能性を追求せずにはいられないもの。それゆえ、
社会という枠組みを、人の手で高度に発達させるようになる。
そして人の生活は、自然との関係よりも、社会との関係の中に、
主な喜びを見いだすものにもなっていく。
人の社会は、歴史を経ながら、様々な集団を成した。
他界した先人や、見えない生命体も、そこに関わりを成した。
人生の体験は、「自動の働き」に補佐されるだけでなく、
そうした様々な他者の思いにも、補佐されるものになった。
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あとがき
ここでは、「全ては一体」という世界観を押し広げて説を組み立てました。
ちなみに、巷の様々な言説の中に出てくる「愛」という言葉を、全て「合い」と読み替えると、
そこに新たな深い内容が引き出されてくるように思います。
次号では、「神」というものについて考察します。
それではまた。
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発行者 哲楽人 週2回発行(月曜・金曜)
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