「喜びの詩」 第11号 2008年5月12日
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目次
□ 世界の成り立ちについて
■ 人のありようについて
○ 体との連動
○ 眠りと死
○ 逸脱現象
● 可能性
○ 運命
○ 他者
○ 神
□ 生きることについて
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ いくつかのものごとについて
(本号に掲載するもの:■●)
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─────── 可能性
人は、他の生物よりも、意識の自由度が高く設定されている。
それゆえ、言葉を使い、社会をつくり、文化や文明を生み出した。
それは、人として様々なものごとを設計し、様々な役割を演じた結果。
これらのふるまいは、「設計し、演じる」という「もともとの意識」の表現に、相似したもの。
これは、生物としての最大限の可能性が、人に与えられていることを示すもの。
人の可能性の内、特に際立つものは、「意識の属性」を自ら改変しうること。
これは、意識の自由度や性向を、自ら変えていけるということ。
つまり、「能力」や「人格」を、自ら変えていけるということ。
能力にも人格にも、様々なかたちがあり、それ自体に優劣はない。
ただ、それぞれを高める方向はある。
高い能力とは、つまるところ、高い「意」の能力と「識」の能力。
「意」の能力とは、思う力や、考える力。いわば、ものごとを叶える力。
「識」の能力とは、感じる力や、解する力。いわば、ものごとを捉える力。
感受性を豊かにし、理解や思考を深くし、思いや行いを自在にする、
それが結局、能力を高めるということ。
高い人格とは、つまるところ、他者に喜びを与える人格。
他者に与える喜びを、より大きなものにする、
それが結局、人格を高めるということ。
能力の向上は、それ単独でも、ある程度なしうる。
しかし、より高い能力の実現には、人格の向上も要する。
それは、自力だけでなく、他者からの影響の助けも要するゆえ。
他者に喜びを与え、人格を高めることで、それが得られる。
人格の向上は、それ単独でも、ある程度なしうる。
しかし、より高い人格の実現には、能力の向上も要する。
それは、他者に大きな喜びを与えるには、相応の自力も要するゆえ。
様々なかたちで、能力を高めることで、それが得られる。
つまり能力と人格は、高めるにつれ、分けられない一体のものになる。
そして、これらを高めることは、意識の「目覚め」を高めることにあたる。
意識が高く「目覚め」ることは、それまでの「意識の属性」から、逸脱すること。
しかし能力と人格の向上は、単なる逸脱でなく、改変した新たな「意識の属性」に沿うこと。
ゆえにこの逸脱は、「自動の働き」によって引き戻されることはない。
むしろこれは、大きな喜びをもたらすもので、目指すべきものになる。
意識の「目覚め」が低いままでも、「自動の働き」によって、最低限の生は進行しうる。
しかし、そこで得られる喜びはより小さい。
人は、より大きな喜びへ向かわずにはいられない。
自分の中にある可能性を、試みずにはいられない。
つまり人は、必然的に、能力と人格を高め、意識の「目覚め」を高めていく。
この展開は、生における「進歩の展開」に沿うものになる。
もし、尽きることなく進歩でき、「完全」へ向かっていけるとすれば、それは、
もともと「完全な」存在が、もとのありように回帰する姿としてのみ成り立つこと。
全くの無から有が生じることはない。もとになる何かがあってこそ、有は生じる。
つまり、人が能力を高めうるなら、それは、そこに高い能力が潜在することを示すもの。
もともと低い能力の存在なら、高い能力は実現しえない。
もともと高い能力をもち、それを低く制限しているからこそ、高い能力を実現しうる。
低い能力がもともとの姿で、高い能力がつくり上げられた姿なのではなく、
高い能力がもともとの姿で、低い能力がつくり上げられた姿。
同様に、人が人格を高めうるなら、それも、そこに高い人格が潜在することを示すもの。
無限に高い能力と人格、つまり無限に高い意識の「目覚め」、
それが、「もともとの意識」のありよう。
それが人にとっての、可能性の源泉であり、自ずと向かっていく方向。
つまり人にとって、「もともとの意識」とは、
自分の意識を、過去へたどっていった先の姿であり、未来へたどっていった先の姿。
または、今の自分の意識を、深く掘り下げていった先の姿。
人にとって不可能なこと、それは皆、
「もともとの意識」が、自由度の制限下に、自らを置いたことから来る。つまり、
何らかの「鋳型」に沿うという、「演じ」る表現に避けられない「不完全さ」から来る。
人にとって、それ以外から来る不可能なことは、最終的に何もない。
つまり、「個体の個性」が指定する、物質の世界や人体の、
法則や仕組みに従う以外は、人にとって絶対の不可能は存在しない。
人が不可能と思うことのほとんどにおいて、
実際に人を限定するのは、それを不可能と見なす思いの他に、何もない。
人は、過去の因果さえも、いわば超えることができる。
「因果作用」そのものを打ち消すことはできなくとも、
それがもたらす結果を打ち消し、別の結果へと変えていける。
その方法は、同じ「因果作用」を利用するもの。つまり、
打ち消す方向の原因をつくり出すことで、打ち消すような結果をもたらし、
望む方向の原因をつくり出すことで、望むような結果をもたらすこと。
民話や寓話にたとえれば、意地悪な人物が不幸な結果を得たとしても、
その後、改心して親切をするようになれば、その人物も幸せになれるということ。
「因果作用」が喜ばしい正の結果をもたらす際、それを変える必要はない。
「因果作用」が苦しい負の結果をもたらす際、それを変えたいという意図が生まれる。
負の結果を変える方法は、二通り。
喜びを目指す正の思いや行いをもち、「具現化作用」によって正の結果をもたらすことと、
他者に対する正の思いや行いをもち、「収支平衡作用」によって正の結果をもたらすこと。
人がもつ可能性は、「因果作用」に反することでなく、
状況を深く捉え、適切な思いや行いをもつことによって、「因果作用」を活用すること。
それをどこまで活用できるかは、どこまで捉え、思い、行うことができるかによる。
つまりそれは、能力の高さや、人格の高さによる。よって、
能力と人格を限りなく高めていけば、あらゆる結果を変えていけることになる。
意識の「目覚め」を限りなく高めていけば、あらゆる因果を、いわば超えていけることになる。
ただ、意識の「目覚め」を、真に無限に高めるには、
際限のない時間と、肉体の能力を超える働きを要する。
一生の時間に限りがあり、物質の体を通して活動する以上、
人は、全ての因果を超えるには至らない。そこに、生物としての限界は残る。
それでも、生物としての最大限の可能性が、人に与えられていることには変わりない。
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あとがき
人格の高さとは、最終的に、他者に与える喜びによって計られるものではないか、
というアイデアから、「人格の高さ」というものを定義しました。
一見地味な定義ですが、これは今後の議論の中で様々に役に立ちます。
次号では、「運命」というものを、真正面から考察してみます。
それではまた。
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発行者 哲楽人 週2回発行(月曜・金曜)
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