「喜びの詩」   第9号 2008年5月5日

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目次

□ 世界の成り立ちについて
■ 人のありようについて
   ○ 体との連動
   ● 眠りと死
   ○ 逸脱現象
   ○ 可能性
   ○ 運命
   ○ 他者
   ○ 神
□ 生きることについて
□ 自分の生を、より大きな喜びにすることについて
□ 他者との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ 社会との関わりを、より大きな喜びにすることについて
□ いくつかのものごとについて

(本号に掲載するもの:■●)
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─────── 眠りと死


人の生には、眠りというものが組み込まれている。
太陽の循環の周期に合わせるように、 活動の後に体を休めると、
人は自動的に、眠りにつく。それは「自動の働き」のもとで成り立つもの。

ここで意識は、「個体の個性」に沿った活動を休止する。
睡眠中の肉体を維持することや、眠りを解くことは、
やはり「自動の働き」によって成り立つこと。

睡眠中、意識は、「個体の個性」に半ば沿って、活動をすることもある。
この時、
「意識の属性」では、同じ個性が、そのまま指定されたかたちになり、
「体験世界の属性」では、物質の世界が、指定から外れたかたちになり、
「連動する体の属性」では、肉体が、指定から半ば外れたかたちになる。

意識はそこで、物質の世界の体験とは別の、何らかの体験をすることになる。
睡眠中の肉体が受けた感覚や、過去に体験したことなど、様々な情報がそこには反映される。
そしてそれは睡夢として記憶に残され、思い出されるようにもなる。

睡夢の世界は、体験世界としては何もしつらえのない、白紙のようなものにあたる。
つまりそこには、表現をありありとさせるための、法則や制約はほとんどない。
そこでの表現は、明瞭でなくても、つじつまが合っていなくても構わない。
細部までつくり込まれていなくても、どこか破綻していても構わない。
そこに登場する他者は、自分が描いたもので事足りる。
つまり睡夢の世界では、思いを実現するのに必要な、調整作業はより少ない。
よって思いは、すぐにかたちになりやすい。
睡夢の体験も、やはり意識のかじ取りと、「自動の働き」の補佐によってつくられるもの。

睡夢の体験は、その自由さゆえに、様々なかたちをとりうる。
時に、相当にありありとした表現が現れたりする。
意識に連動する体が、人ではないものだったりする。
自分の密かな思いが表れたり、封じられている記憶が解かれたりする。
さらには、物質の世界に具現化されようとする出来事の情報が、事前に垣間見られたり、
本当の他者の思いと通じて、体験が共有されたりすることも、そこでは許されうる。

睡夢の世界が、意識の中の体験世界、つまり情報であることはわかりやすい。
しかし物質の世界も、「もともとの意識」の中の情報である点で、これと構図は変わらない。
そこにある違いは、表現がどこまでありありとしているかという、程度の違い。
つまり「もともとの意識」からすれば、物質の世界の体験も、まさに睡夢のようなもの。
こうした構図は、死後の世界についても、同じようにあてはまる。

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人の生には、肉体の死というものが組み込まれている。
肉体が寿命を迎えたり、傷ついたりして、意識と連動しえない状態になると、
人は自動的に、肉体の死を迎える。それは「自動の働き」のもとで成り立つもの。

「個体の個性」の設定は、そこで大きく切り替えられることになる。
ただ、死の直後は、まだその全ては切り替えられていない。
この時、
「意識の属性」では、同じ個性が、引き続き指定されていて、
「体験世界の属性」では、物質の世界が、まだ指定されていて、
「連動する体の属性」では、肉体が、すでに指定から外れている。

そこでは、感じとれる感覚の種類は、まだ変わらないままでありうる。
すると意識はその間、物質の体を伴わずに、物質の世界を体験できることになる。
たとえば、思ったところに自動的に行き、状況を見聞きしたりできる。
それは、体験世界という情報に対して、感覚の中心を自由に動かせることにあたる。

しかしやがて、「体験世界の属性」についても、その指定は切り替わる。
物質の世界から、死後の世界へ。

肉体の傷みが決定的でない場合は、こうした過程を進む間に、
肉体が回復し、意識と連動しうる状態にまで戻ることがありうる。
それは肉体に残っている治癒力、つまり「自動の働き」による。
ここで意識が、人としての生を続けたいと思えば、
やはり「自動の働き」によって、再び肉体と連動することがありうる。
もしそうして生還すると、それまでの体験は、
「臨死体験」として記憶に残され、思い出されるようにもなる。

「臨死体験」は、ある一定したかたちや、様々なかたちをとりうる。
時に、自分と連動していた肉体を、客観的に眺めたりする。
管理されていた記憶や、封じられていた記憶が、一気に開かれたりする。
体験世界が切り替わる際に、特定の光景を見たりする。
そして、別の世界のとば口では、様々な具体的な表現に出会ったりする。
景色が、生前の国柄を反映していたり、登場する他者が、生前の姿をしていたりする。
それは、物質の世界の記憶をもとに、その表現を起こしているゆえ。
つまり、そこはある程度、思いが自由に具現化される世界。

物質の世界は、ありありとしている一方で、法則と制約に満ちている世界。
睡夢の世界は、何もしつらえがない一方で、思ったことがかたちになりやすい世界。
死後の世界は、いずれにしても、これら両極端のありようの、間に位置することになる。
つまりそれは、ある程度のつくりと制約をもちながら、思いが反映されやすい世界。

ありありとした物質の世界を「表舞台」とすれば、死後の世界はいわば「楽屋裏」にあたる。
楽屋裏とは、表舞台の厳しい制約や、舞台衣装から、解き放たれる場所。
「舞手」にとって、より本来の姿に近い、日常が感じられる場所。
表舞台での無我夢中の「舞」を、客観的に捉えられる場所。
表舞台で体験したことを、仲間と共有できる場所。
気になったら、身を隠したまま、表舞台の様子をうかがいにも出られる場所。
そして、再び「骨のある遊び」に挑みたくなったら、
舞台衣装をまとって、新たな気もちで表舞台へ出ていける場所。
死後の世界は、いわばそのような場所でありうる。

人は昔から、死後について、物質の世界とは別の世界があると考えた。
それは、ありありとした日常の体験に没頭する中からは、本来生まれにくい発想。
ただ人は、物質の世界とは別の世界を、身近に体験し、知ることができた。
それは睡夢の世界。
ゆえに人は、そこから相似的に、考えを深めることができた。
もし眠りというものが、人に組み込まれていなかったなら、
死というものは、人にとって想像し難い、より遠いものだったはず。

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意識にとってのあらゆる体験の中で、たとえば、
物質の世界での行いの報いが、睡夢の世界や、死後の世界で返ってきたり、
睡夢の世界や、死後の世界で抱いた思いが、物質の世界で実現したり、
物質の世界で抱いた思いが、死後の世界を経て、再びの物質の世界で実現したりするとすれば、
それは、体験世界を問わず、やはり「因果作用」が働いていることを示すもの。
そして、いずれの体験世界であっても、そこでの役になりきり、その体験に没頭する以上は、
意識にとって、直面する出来事の重みに変わりはないことになる。

どこまでもありありとしている、物質の世界の中で、
地球には、自ら回転しながら太陽の周りを巡る、循環運動が組み込まれている。
それゆえ、地球上の生の環境は、様々な循環から成り立っている。
その環境に合うように「設計」された生物にも、循環が組み込まれているのは自然なこと。
その一つが、一日の終わりとしての眠りであり、一生の終わりとしての肉体の死。
眠りという仕組みが、よりよい一日に資するものとしてあるように、
肉体の死という仕組みも、よりよい一生に資するものとしてある。



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 あとがき
泡沫的に生滅する、各自バラバラな睡夢というものを、
体験世界の一つとして扱うのは、いかがなものかとも思えますが、意識にとっては、
それもやはり「体験」のフォーマットの一つであることに変わりありません。逆に、
認識される物質の世界も、各自の意識に映った世界、つまり情報であることに変わりなく、
それが他者とリンクしているゆえ、リアルに思えるにすぎない、と言えなくもありません。
結局意識にとって、体験世界はどれも相対的なものだというのが、最終的な見方でしょう。
一見危ういテーマが続きますが、次号では、超常的な現象というものについて考察します。
 それではまた。
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発行者 哲楽人  週2回発行(月曜・金曜)
バックナンバー掲載サイト http://www.yorokobi.info

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